円満寺の紹介

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「怒り」について考える①②③④⑤⑥

「怒り」について考える①

最近、ちまたでは、悲惨な事件が次から次へと起こっています。親が子を虐待する。子が親を殺傷する。夫婦・恋人間でも。学校ではいじめ自殺。さらに怖いのは「誰でもよかった」というたぐい。毎日、テレビやネットでは、目を覆い耳をふさぎたくなるような出来事が、これでもか、というほど報道されています。


こうした事件がなぜ多発するのか。それは、いま、私たちの社会に「怒り」があふれているからではないでしょうか。個人でも国家レベルでも。悲惨な出来事の元凶は「怒り」だと思います。

しかし、よくよく考えてみると、「怒り」は他人ごとではなく、この私自身のこと。自分でも不思議です。なぜ、人は怒るのでしょうか。

怒りは、人から幸せを奪います。怒って何もよいことはありません。何も解決しません。よけい事態をこじらせて、自分もまわりも不幸にするだけです。それが、わかっているのに、私は気が付けば「怒り」のなかにいます。なんと悲しいことでしょう。

自戒の念をこめて、しばらく「怒り」について、考えてみたいと思います。合掌


「怒り」について考える②

いま、私たちの社会がとても不寛容になっていることは、すでにさまざまな立場の人によって指摘されているところです。ですから、このページでは、なぜ、社会から寛容さが消え、「怒り」が社会全体を覆うようになったのか、その原因を探ることはやめます。

むしろ、いま、現実の社会に生きる私たち一人ひとりが、自分の感情をうまく制御し、「怒り」から離れて、幸せに暮らすにはどうすればよいか。それを考えたいと思います。

前回も申しましたように、「怒り」は人間から喜びを奪います。幸せを壊します。ですが、「怒りは自然な感情だから仕方がない。」 むしろ、「現代のような競争社会では他者への攻撃は当たり前」という風潮があります。本当にそうでしょうか?

仏教では、人の心を毒する三つの煩悩を「三毒」といい、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに = 怒り)・愚痴(ぐち)の三つを「毒」と断言します。ですから「怒り」をもてば、当然、その毒によって心身はダメージを受けます。

このダメージはすぐに表れる場合もありますが、たいていは、一定の時間を経過したのち、「じわっ」と出てきます。仏教の言葉でいうなら、その怒りが「縁」となって、あなたやあなたのまわりの人たちの人生を変えていくのです。もちろん、マイナスの方向へ。

おおげさに思われるかもしれませんが、お釈迦様が説かれた「縁起」の考え方に照らせば、「怒り」はあなただけでなく、ご家族をはじめ、あなたと関わる人々に影響を与える「種」なのです。そして、蒔かれた種は発芽し、「怒り」からマイナスの肥料をもらって成長し、やがて実を結びます。

そのとき、あなたは不思議に思うでしょう。「なぜ、こんなことになったのかと」。

もちろん、人の幸不幸は様々な要因が複雑に絡んで起こります。ですから「怒り」だけで不幸の原因を説明することはできませんが、その要因の一つになり得ることを知っていただきたいのです。

このように考えると、怒りは毒であり、不幸の種である。むやみに怒るべきでないことがおわかりいただけると思います。幸せになるには、まず、怒りから離れることです。

しかし、それが頭ではわかっても、日常生活の中ではどうしても怒ってしまう。そこが難しいところです。合掌

怒りについて考える③

このブログで「怒り」に関する記事を書いている間にも、京都で35人が死亡する(7/28現在)大変痛ましい事件が起こりました。この事件の容疑者は、京都のアニメーション会社に相当強い怒りをもっていたようです。人は怒りが高じれば、こんな事件を引き起こすのです。きょうは、怒りとは何か。その正体について考えてみることにします。

さて、怒りが殺人に及ぶことは、すでにお釈迦様の時代(初期仏教)から言われてきたことです。現代のスリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老によると、怒りは「自分の心に生まれる感情」であり、「どんどん強くなる」性質があるといいます。この考えからすれば、京都の事件は、犯人の心に生じた怒りが高じた結果おこった事件と言えましょう。

スマナサーラ長老は、お釈迦様時代の古いインドの言葉、パーリ語では、怒りを表す言葉は、そのレベルによって何種類もあると言います。長老の著書『怒らないこと』サンガ新書、よりいくつか紹介しましょう。

まずドーサ。これは「濁る」という意味で、いわゆる「暗い」ということ。私たちの心に暗く濁った感情=怒りが生まれたら、私たちはピーティ(喜び)を失います。いま、自分が怒っているかどうかわからない場合は、「今、私は楽しい?」「今、喜びを感じている?」と自問自答してみればいいのです。

「別に楽しくない」、「何かつまらない」と感じるならば、そのとき、心のどこかに怒りの感情があります。「退屈だ」「嫌だ」などの感情があるときは、心に怒りがあるのです。「ああ楽しい」「わくわくしている」というときには怒りはありません。「元気です」というならば、その心に怒りはありません。

このようにスマナサーラ長老は、怒りを「自分の心に生まれる感情」ととらえると、怒りをある程度認識できると言います。では、ドーサの他に、怒りにはどんな感情があるか見ていきましょう。

次にマッキリー。これは、軽視する性格のことです。他人のよいところを認めたくなくて、言いがかりをつけて軽視するのです。これも怒りです。

パラーシーは、張り合うこと。他人と調和して仲良く生きることができない。いつも他人と競争し、倒そうという気持ちです。

イッスキーは、嫉妬すること。これは他人のよいところを認めたくないという点ではマッキリーと同じですが、そのエネルギーを自分の内に向き暗くなるのです。

マッチャリーは、物惜しみ。俗にいうケチということです。ケチがなぜ怒りなのか。それは、自分のものを他人が使用して喜ぶのは嫌なのです。分かち合ってみんなで楽しむということを好まない。ですから暗い性格です。したがって物惜しみは怒りなのです。

ドゥッバチャは、反抗的ということ。他人にあれこれ言われると受け入れがたく、拒絶反応がおこる。これも怒りです。

クックッチャは、後悔です。後悔は反省とは違います。過去の失敗・過ちを思い出しては悩むことです。これはかなり暗い性格ですから、性質の悪い怒りなのです。

ヴェーラは、恨みのこと。自分のことを邪魔する誰かのことを思い出して怒り、直らないのです。いわゆる引きずる怒りです。また、これは自分の歯をジリジリと噛んだり、こぶしを握ったり、筋肉が震えたりする、そんな強い怒りです。

ビャーバーダは、激怒、異常な怒りのことです。理由の有無にかかわらず怒る。理由があった場合でも、その怒りは並外れて強烈なものです。人を殴ったり殺したりする場合の怒りは、この怒りなのです。

暗い感情、喜びを失った感情、ドーサがあまりにも強くなると、ヴェーラというレベルに上がってきて、じっとしていられません。さらに強くなってしまうと、さまざまな行動の中で、いろいろなものを破壊していきます。

真っ先に破壊するのは自分です。自分を破壊して、それで他人も破壊していくのです。7月18日の京都アニメーション会社放火事件、5月28日の川崎市スクールバス殺傷事件も、パーリ語でいうところのビャーバーダという異常な怒りによるものと言えます。

きょうは、現代のスリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の『怒りについて』より、「怒り」は日常では、どのような感情として現れるのか、怒りの具体的な姿について見てきました。次回より、いよいよ本論に入ります。すなわち、私たちが、自分の感情をうまくコントロールし、怒りから離れて、幸せに暮らすにはどうすればよいか。それを考えたいと思います。合掌

「怒り」について考える④

前々回、仏教では、人の心を毒する三つの煩悩、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)(怒り)・愚痴(ぐち)の三つを「毒」と断定すると申し上げました。

これらは、中国から日本に伝わった大乗仏教は言うに及ばす、もっとも古いインドの初期仏教の経典、『スッタニパータ』でもしるされています。同書より、怒りに関する部分を紹介しましょう(中村元訳『仏陀のことば スッタニパータ』岩波文庫)。

第1 蛇の章 1、「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨てる。・・・蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」

これは、『スッタニパータ』の最初の文章です。冒頭に「怒り」について書かれているということは、それが修行者にとって、非常に大きな関心事であったことを示すものです。ここで注目すべきは、怒りを「蛇の猛毒」と同じようにみなし、それを「制する」という箇所です。初期仏教では、怒りを制することが可能というのです。

では、どのような方法で怒りをコントロールするのか、スマナサーラ長老は次のように言います。『怒らないこと』(前掲書)より引用します。

怒りとは自分の中からうまれるものですから、解決方法は、「毒そのもの」を抜くことしかありません。ヴィパッサナー瞑想法(お釈迦さまが教えた、悟りに至る瞑想法)でいう、「今の瞬間の自分に気づくこと」です。それが世の中でいちばん科学的な、怒りの毒を抜く方法なのです。

ですから、怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ。怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐ自分を観てください。怒りそのものを観察し、勉強してみてください。「今この瞬間、私は気持ちが悪い。これは怒りの感情だ。ということは今、私は怒っているんだ」と、外に向いている自分の目を、すぐに内に向けてください。

最初は、「人が何か言うと、すぐに怒ってしまう」というところまでは仕方がありません。でも、それからも延々と人の言葉に振り回されるのではなく、怒った瞬間に「これは怒りだ。怒りだ」と観てください。そうすると、怒りは生まれたその瞬間で消えてしまうはずです。

「自分を観る」、ただそれだけとスマナサーラ長老といいます。

確かに、そうだなあ、と思うのですが、でも、怒りは人間の煩悩です。煩悩を私たちが心の内観でコントロールできるのか、そこがよくわかりません。上座部仏教と日本に伝わった大乗仏教とでは、煩悩のとらえ方に違いがあるように思います。

たとえば、大乗仏教の代表的な思想に「唯識(ゆいしき)」があります。唯識思想では、煩悩を心の表層部分だけでなく、心の深層にかかわる問題としてとらえます。

怒りに関して言えば、人が認識可能な怒りの感情というのは、怒りの一部にすぎず、むしろ、普通の人間には認識不可能な心の深層にこそ、怒りを生み出す根本的なメカニズムが存在すると考えます。

心の深層は、ほとんどの人が認識できない場所ですから、「凡人には打つ手なし」。これは、唯識思想だけでなく、禅宗系仏教、浄土系仏教など大乗仏教全般に共通する立場といってもよいでしょう。

私自身のささやかな経験に照らしても、たとえ怒りが心の内観で静まったとしても、それは一時的なもので、条件さえ整えば、やすやすと私の心を占領してしまいます。悲しいことですが、これがどうしようもない私の姿です。

上座部仏教の立場からすれば、「どうしようもない」のではなく、それは私の修行が足らないからです。しかし、日々の生活の中で、感情の制御を続けることは、本当に難しいこと。凡人はどうしたらよいのでしょうか。

大乗仏教では、ある意味「打つ手なし」と自分にギブアップするのです。そこから、人が煩悩を抱えたままで、煩悩から離れる方法が説かれるのです。次回から、大乗仏教が示す「怒り」への対処法について考えてみましょう。合掌

「怒り」について考える⑤

前回、怒り、あるいは煩悩に対する立場が、上座部仏教と大乗仏教とでは異なることを申し上げました。今回は、どこが違うのかもう少し、考えてみることにします。

さて、上座部仏教では、前述のスマナサーラ長老の言葉にあるように、怒りの感情が起きたら、自分の心の中を見つめ、怒りを客観的に観ることを求めます。しかし、怒り(=煩悩)を自分のなかで実体化し、その制御にこだわると、かえって煩悩にとらわれ、そこから離れるのが難しくなります。

ですから、大乗仏教では、煩悩に「こだわるな」というのです。これが有名な『般若心経』で説かれる「空(くう)」の思想です。では、どうしたら私たちは、こだわりを捨てることができるのか。つまり「空」を思想を身につけることができるのか。

結論を申し上げると、仏さまの力を借りるのです。なぜ、仏さまの力を借りる必要があるのか。それは、私たちが煩悩に対して「無力」だからです。これについては、前回、唯識思想のところで少しふれましたが、きょうは、その理由を一部、横山紘一先生の『やさしい唯識』(NHK出版)を引用しながら解説します。少々話がややこしくなりますが、どうか、おつきあいください。

さて、唯識は、大乗仏教の有力な学派の一つで、人がものごとを認識する心のはたらきについて分析します。まず、心の働きを表層部分の6種類(眼識・耳識(にしき)・鼻識・舌識・身識・意識)と、深層部分の2種類(末那識(まなしき)・阿頼耶識(あやらしき)、合計8種類(八識)立てます。

眼・耳・鼻・舌・身の五識は、それぞれ固有の対象をもつ感覚のことで、意識に働きかけ言葉を使って概念的に思考します。末那識は深層に働く自我執着心のこと。阿頼耶識は一切の現象を生み出す根本の心のことをいいます。

たとえば、ある人と出会うとします。すると自分の意思とは関係なく、その人の映像が心の中に生じます(眼識)。次に憎いという感情=煩悩が生じ、その人の映像に色づけします。なぜ、憎いという感情が生じるのかは、その奥に「自分にこだわる心」があるからです。

つまり、「自分は~である」、「~は自分のものである」と、何でも物事を自分中心に考え、主張し、争う心があるから「自分はあの人が憎い」と思うようになるのです。この「自分」を設定するもの、これが深層に働く自我執着心、末那識です。

そして、最後に憎しみの感情が、言葉になって「あの人は憎い人だ」と決めつけてしまいます。この言葉を発する心、それが意識です。さらに、このように眼識から意識・末那識によって生まれ、表明された憎いという感情、これらすべてを生み出す根本の心が阿頼耶識なのです。

阿頼耶識はサンスクリット語の「アーラヤ・ヴィジュニャーナ」の音訳で、アーラヤとは蔵(倉庫)という意味です。なぜ蔵なのか。それは、たとえば、ある人をいったん憎むと、前述のスマナサーラ長老も指摘するように、その憎しみがひとりでにますます高じていくことがあります。このようなことが起こるのは表層の心のありよう、すなわち業(ごう)がなんらかの影響を行為者に残すからです。

その影響が植えつけられる場所、それを唯識学派の人々は阿頼耶識と名づけました。そして、阿頼耶識の中に植えつけられた影響を植物の種子に例えて「種子(じゅうじ)」と名づけたわけです。つまり、阿頼耶識とは植えつけられた種子を蓄える蔵という識(心の働き)ということになります。

私たちが心の中でなにか悪いことを考える。また、それは他人にはわからないからいいや、と思って人を憎み、嫌う。しかし、他人に気づかれないとしても、その思いは種子を汚し、阿頼耶識は汚れた種子をため込んで、深層心はどんどん重くなり、その結果、憎しみの感情を高じさせるのです。

しかも、具体的な言動として表面にあらわれた憎しみや怒りは、すぐに、一層汚れた種子として阿頼耶識に植えつけられ、さらに次の言動を引き起し、エスカレートしていきます。しかも、この阿頼耶識の働きは、世代を超えて受け継がれると考えられています。ですから、私の感情や言動がいつどのような結果を生み出すかは、予測することがほとんど不可能。

そういう意味で、前回、私たち「凡人には打つ手なし」と申し上げたわけです。では、私たちは、本当に無力かというと、そうではありません。むしろ、その無力さを自覚したとき、新しい道が開かれるのです。

本当に阿頼耶識の働きの怖さ・恐ろしさに気づいたとき、私たちは生きる姿勢を正そうという気持ちになります。そんな私たちに大乗仏教は、さまざまな救いのプログラムを用意して励ましてくれるのです。それについては、次回お話ししましょう。合掌


「怒り」について考える⑥

ここまで「怒り」について私がどのように考えているか、思いつくままに記してきました。私のような浅学の者が、唯識(ゆいしき)思想を取り上げるのは恐れ多いことだと思います。しかし、唯識は、私に希望を与えてくれるのです。仮にも僧侶である私が「怒り」をコントロールできないのは、本当に情けないこと。自分で自分がイヤになります。

ですが、そんな私にこの思想は、自分の情けなさが自覚できたら大丈夫。そこから、あなたは自分の未来をプラスに転じていけるのだよ。そう励ましてくれるのです。

話を唯識思想にもどします。さて、深層心の阿頼耶識(あやらしき)は、過去の業(ごう)(言動・行為)を蓄え、苦悩を生み出す働きをするということで、一般的にマイナスのイメージをもたれがちです。しかし、阿頼耶識そのものは、何の汚れもなく、善でも悪でもないとされます。

また、阿頼耶識の中に蓄えられる種子(しゅうじ)は、汚れたものばかりでなく、仏になる可能性をもった「清らかな種子」が混じっていると考えられています。ということは、汚れた種子を減らし、清らかな種子がふえるよう阿頼耶識にプラスの影響を与えれば、阿頼耶識が生み出す未来の姿もプラスに転換できるということではないでしょうか。

そもそも阿頼耶識は業を蓄えるだけでなく、別名「一切種子識」と言われるように、現在と未来の一切を生み出す力をもっています。ですから、当然、現在と未来の在り方を変える力が備わっているのです。

では、「清らかな種子」をふやすにはどうすればよいのでしょう。阿頼耶識の中に植えつけられた種子は、植物の種が土の中で徐々に発育するように、阿頼耶識の中で発育成長し、さまざまな「縁」を得て発芽することになります。つまり、植えつけられた種子は、潜伏期間中にさまざまな条件が加えられ、はじめて芽を吹くのです。

とすれば、たとえ、一時的に人を憎み、怒りをもつようなことがあったとしても、それに気づき自分の言動を正し、意識的に「清らかな種子」に善業(ぜんごう)(正しい言動・行為)の肥料を与えれば、結果は違ったものになります。

ただ、自分の言動を正し、生き方を正そうとして急に善いことをしても、その行為の結果がすぐに報われるとは限りません。それは、植えつけられた種子が芽を吹くまでに、さまざまな原因・条件、「縁」が熟する期間が必要とされるからです。

それともう一つ、善業の中身にもよります。考えてみれば、私の行為はいつも自分中心です。「他人の不幸は蜜の味」それが私の姿です。たとえ生き方を正したとしても、それは一時的なもの。たいてい、時間がたてば元に戻ってしまいます。

悲しいことですが、そんな私が、悪業にまみれた汚い種子に負けない「清らかな種子」を育てるにはどれだけの肥料がいることか。そんな善業を積むのは本当に大変なことです。ではどうすればよいのでしょうか。

本当に自分の弱さ、無力さを自覚したとき、つまり、自分自身にギブアップしたとき、私たちは心から仏さまの教えに耳を傾けることができるようになります。仏さまのパワーは絶大です。その仏さまの教えをくり返し聞くことで身についた仏のパワーが阿頼耶識に潜む清らかな種子に肥料や水を与え、それを生育させ、清らかな芽を吹かせるのです。

この点について、高崎直道先生は次のようにおっしゃいます。

「アーラヤ識が、仏の教えを聞くことのくりかえしによって生まれる力 ― これを「聞薫習力(もんくんじゅうりき)」といいます ― がはたらくと、次第にそのけがれた心を起こす力が弱まり、ついにはまったく、アーラヤ識としての機能を失います。(中略)自然状態では迷いの道に進むアーラヤ識のなかに、法(仏の教え)を聞くことを通じて、さとりに向けて進むような力(聞薫習の種子)を植えつける。これが力となって修行の意欲を生み、菩薩としての自覚を生んで、やがて仏にならって衆生済度の道をあゆむようになる。」(高崎直道 著『唯識入門』春秋社)

どうですか、仏さまのパワーは、私たちの現在と未来を形づくる強力な阿頼耶識の働きさえも弱め、私たちの生き方を菩薩の道へと導いてくれるというのです。自分の感情を満足にコントロールできない情けない私でも、仏さまの力で仏道を歩むことができる。これはすごい! 私は感動しました。

それでは、「仏さまの教えを聞く」とは具体的にどのように聞けばよいのでしょう。この点について、次回より日本仏教を代表する方々に教えていただこうと思います。合掌



 

 

 

 

 

 

 

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