住職の紹介

  • 清水 保道(しみず ほどう)
    宗教法人円満寺第29世住職。円満寺が、なんとなく、ゆる~い“ほっこり”した感じのお寺になればいいな、と思っています。
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9月の行事予定

① お月見&献灯会(雨天実施)

9月13日(金)17時30分~20時30分(都合のよい時間にどうぞ・無料)

中秋の名月の宵、ミニ灯篭に願いを書いて、お供えしませんか。

「元気ですか? どうしていますか? いつか、また会えますように ‼」

本堂でお茶を点てます。外の縁側で、美しいお月様を眺めながら、抹茶とお団子で一服してください。気軽にふらっと、いらっしゃい!
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② 歌声法話の会 

9月21日(土)9時~9時40分、円満寺本堂

朝のお勤めとミニ法話、季節の歌などで楽しいひと時をお過ごしください。

 

③ 仏教入門: 新連続講座 「お経は おもしろい ‼」 第1回

9月28日(土)10時~11時鈴峰公民館(鈴鹿市伊船町1009-5)、無料

問合せ・申込み:059-371-1827(清水) 

お経(仏さまの教え)には、苦しいとき、辛いとき、迷ったとき、どうすればよいか、たくさんのヒントがしるされています。日ごろから、お経の智慧を身につけておくと、生きるのがラクになりますよ。
講座では『般若心経』、『法華経』、『阿弥陀経』などについて学びます。教材はこちらで用意します。手ぶらでおいでください。

 

8月の行事予定

① 念仏会(お念仏とミニ法話)

    8月3日(土)19時30分~20時、円満寺本堂
    新しくなった本堂の照明は、まるでミュージアム。ぜひ、幻想的な夜の円満寺へお越しください ‼

② 盂蘭盆会・戦没者追悼法要

    8月15日(木)9時~、円満寺本堂

③ ペット供養

    8月15日(木)9時40分頃~、円満寺本堂

     当寺は人も動物も救ってくださる馬頭観音さまをお祀りしています。ペットの写真など、思い出の品をお持ちください。

④ 円満寺の送り火

    8月15日(木)19時30分~20時、円満寺境内(雨天時は本堂)

    お盆には亡くなった人やペットが帰ってきます。境内で送り火を焚いて見送ります。「戻ってきてくれてありがとう。また会いましょう。待っててくださいね。」

⑤ 仏教入門:「禅」で心と身体をリラックス(最終回)

    8月24日(土)10時~11時00分、鈴峰公民館(鈴鹿市伊船町1009-5)
    参加費:無料
    問合せ・申込み:059-371-1827(清水) 

「怒り」について考える①②③④

「怒り」について考える①

最近、ちまたでは、悲惨な事件が次から次へと起こっています。親が子を虐待する。子が親を殺傷する。夫婦・恋人間でも。学校ではいじめ自殺。さらに怖いのは「誰でもよかった」というたぐい。毎日、テレビやネットでは、目を覆い耳をふさぎたくなるような出来事が、これでもか、というほど報道されています。


こうした事件がなぜ多発するのか。それは、いま、私たちの社会に「怒り」があふれているからではないでしょうか。個人でも国家レベルでも。悲惨な出来事の元凶は「怒り」だと思います。

しかし、よくよく考えてみると、「怒り」は他人ごとではなく、この私自身のこと。自分でも不思議です。なぜ、人は怒るのでしょうか。

怒りは、人から幸せを奪います。怒って何もよいことはありません。何も解決しません。よけい事態をこじらせて、自分もまわりも不幸にするだけです。それが、わかっているのに、私は気が付けば「怒り」のなかにいます。なんと悲しいことでしょう。

自戒の念をこめて、しばらく「怒り」について、考えてみたいと思います。合掌


「怒り」について考える②

いま、私たちの社会がとても不寛容になっていることは、すでにさまざまな立場の人によって指摘されているところです。ですから、このページでは、なぜ、社会から寛容さが消え、「怒り」が社会全体を覆うようになったのか、その原因を探ることはやめます。

むしろ、いま、現実の社会に生きる私たち一人ひとりが、自分の感情をうまく制御し、「怒り」から離れて、幸せに暮らすにはどうすればよいか。それを考えたいと思います。

前回も申しましたように、「怒り」は人間から喜びを奪います。幸せを壊します。ですが、「怒りは自然な感情だから仕方がない。」 むしろ、「現代のような競争社会では他者への攻撃は当たり前」という風潮があります。本当にそうでしょうか?

仏教では、人の心を毒する三つの煩悩を「三毒」といい、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに = 怒り)・愚痴(ぐち)の三つを「毒」と断言します。ですから「怒り」をもてば、当然、その毒によって心身はダメージを受けます。

このダメージはすぐに表れる場合もありますが、たいていは、一定の時間を経過したのち、「じわっ」と出てきます。仏教の言葉でいうなら、その怒りが「縁」となって、あなたやあなたのまわりの人たちの人生を変えていくのです。もちろん、マイナスの方向へ。

おおげさに思われるかもしれませんが、お釈迦様が説かれた「縁起」の考え方に照らせば、「怒り」はあなただけでなく、ご家族をはじめ、あなたと関わる人々に影響を与える「種」なのです。そして、蒔かれた種は発芽し、「怒り」からマイナスの肥料をもらって成長し、やがて実を結びます。

そのとき、あなたは不思議に思うでしょう。「なぜ、こんなことになったのかと」。

もちろん、人の幸不幸は様々な要因が複雑に絡んで起こります。ですから「怒り」だけで不幸の原因を説明することはできませんが、その要因の一つになり得ることを知っていただきたいのです。

このように考えると、怒りは毒であり、不幸の種である。むやみに怒るべきでないことがおわかりいただけると思います。幸せになるには、まず、怒りから離れることです。

しかし、それが頭ではわかっても、日常生活の中ではどうしても怒ってしまう。そこが難しいところです。合掌

怒りについて考える③

このブログで「怒り」に関する記事を書いている間にも、京都で35人が死亡する(7/28現在)大変痛ましい事件が起こりました。この事件の容疑者は、京都のアニメーション会社に相当強い怒りをもっていたようです。人は怒りが高じれば、こんな事件を引き起こすのです。きょうは、怒りとは何か。その正体について考えてみることにします。

さて、怒りが殺人に及ぶことは、すでにお釈迦様の時代(初期仏教)から言われてきたことです。現代のスリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老によると、怒りは「自分の心に生まれる感情」であり、「どんどん強くなる」性質があるといいます。この考えからすれば、京都の事件は、犯人の心に生じた怒りが高じた結果おこった事件と言えましょう。

スマナサーラ長老は、お釈迦様時代の古いインドの言葉、パーリ語では、怒りを表す言葉は、そのレベルによって何種類もあると言います。長老の著書『怒らないこと』サンガ新書、よりいくつか紹介しましょう。

まずドーサ。これは「濁る」という意味で、いわゆる「暗い」ということ。私たちの心に暗く濁った感情=怒りが生まれたら、私たちはピーティ(喜び)を失います。いま、自分が怒っているかどうかわからない場合は、「今、私は楽しい?」「今、喜びを感じている?」と自問自答してみればいいのです。

「別に楽しくない」、「何かつまらない」と感じるならば、そのとき、心のどこかに怒りの感情があります。「退屈だ」「嫌だ」などの感情があるときは、心に怒りがあるのです。「ああ楽しい」「わくわくしている」というときには怒りはありません。「元気です」というならば、その心に怒りはありません。

このようにスマナサーラ長老は、怒りを「自分の心に生まれる感情」ととらえると、怒りをある程度認識できると言います。では、ドーサの他に、怒りにはどんな感情があるか見ていきましょう。

次にマッキリー。これは、軽視する性格のことです。他人のよいところを認めたくなくて、言いがかりをつけて軽視するのです。これも怒りです。

パラーシーは、張り合うこと。他人と調和して仲良く生きることができない。いつも他人と競争し、倒そうという気持ちです。

イッスキーは、嫉妬すること。これは他人のよいところを認めたくないという点ではマッキリーと同じですが、そのエネルギーを自分の内に向き暗くなるのです。

マッチャリーは、物惜しみ。俗にいうケチということです。ケチがなぜ怒りなのか。それは、自分のものを他人が使用して喜ぶのは嫌なのです。分かち合ってみんなで楽しむということを好まない。ですから暗い性格です。したがって物惜しみは怒りなのです。

ドゥッバチャは、反抗的ということ。他人にあれこれ言われると受け入れがたく、拒絶反応がおこる。これも怒りです。

クックッチャは、後悔です。後悔は反省とは違います。過去の失敗・過ちを思い出しては悩むことです。これはかなり暗い性格ですから、性質の悪い怒りなのです。

ヴェーラは、恨みのこと。自分のことを邪魔する誰かのことを思い出して怒り、直らないのです。いわゆる引きずる怒りです。また、これは自分の歯をジリジリと噛んだり、こぶしを握ったり、筋肉が震えたりする、そんな強い怒りです。

ビャーバーダは、激怒、異常な怒りのことです。理由の有無にかかわらず怒る。理由があった場合でも、その怒りは並外れて強烈なものです。人を殴ったり殺したりする場合の怒りは、この怒りなのです。

暗い感情、喜びを失った感情、ドーサがあまりにも強くなると、ヴェーラというレベルに上がってきて、じっとしていられません。さらに強くなってしまうと、さまざまな行動の中で、いろいろなものを破壊していきます。

真っ先に破壊するのは自分です。自分を破壊して、それで他人も破壊していくのです。7月18日の京都アニメーション会社放火事件、5月28日の川崎市スクールバス殺傷事件も、パーリ語でいうところのビャーバーダという異常な怒りによるものと言えます。

きょうは、現代のスリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の『怒りについて』より、「怒り」は日常では、どのような感情として現れるのか、怒りの具体的な姿について見てきました。次回より、いよいよ本論に入ります。すなわち、私たちが、自分の感情をうまくコントロールし、怒りから離れて、幸せに暮らすにはどうすればよいか。それを考えたいと思います。合掌

「怒り」について考える④

前々回、仏教では、人の心を毒する三つの煩悩、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)(怒り)・愚痴(ぐち)の三つを「毒」と断定すると申し上げました。

これらは、中国から日本に伝わった大乗仏教は言うに及ばす、もっとも古いインドの初期仏教の経典、『スッタニパータ』でもしるされています。同書より、怒りに関する部分を紹介しましょう(中村元訳『仏陀のことば スッタニパータ』岩波文庫)。

第1 蛇の章 1、「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨てる。・・・蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」

これは、『スッタニパータ』の最初の文章です。冒頭に「怒り」について書かれているということは、それが修行者にとって、非常に大きな関心事であったことを示すものです。ここで注目すべきは、怒りを「蛇の猛毒」と同じようにみなし、それを「制する」という箇所です。初期仏教では、怒りを制することが可能というのです。

では、どのような方法で怒りをコントロールするのか、スマナサーラ長老は次のように言います。『怒らないこと』(前掲書)より引用します。

怒りとは自分の中からうまれるものですから、解決方法は、「毒そのもの」を抜くことしかありません。ヴィパッサナー瞑想法(お釈迦さまが教えた、悟りに至る瞑想法)でいう、「今の瞬間の自分に気づくこと」です。それが世の中でいちばん科学的な、怒りの毒を抜く方法なのです。

ですから、怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ。怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐ自分を観てください。怒りそのものを観察し、勉強してみてください。「今この瞬間、私は気持ちが悪い。これは怒りの感情だ。ということは今、私は怒っているんだ」と、外に向いている自分の目を、すぐに内に向けてください。

最初は、「人が何か言うと、すぐに怒ってしまう」というところまでは仕方がありません。でも、それからも延々と人の言葉に振り回されるのではなく、怒った瞬間に「これは怒りだ。怒りだ」と観てください。そうすると、怒りは生まれたその瞬間で消えてしまうはずです。

「自分を観る」、ただそれだけとスマナサーラ長老といいます。

確かに、そうだなあ、と思うのですが、でも、怒りは人間の煩悩です。煩悩を私たちが心の内観でコントロールできるのか、そこがよくわかりません。上座部仏教と日本に伝わった大乗仏教とでは、煩悩のとらえ方に違いがあるように思います。

たとえば、大乗仏教の代表的な思想に「唯識(ゆいしき)」があります。唯識思想では、煩悩を心の表層部分だけでなく、心の深層にかかわる問題としてとらえます。

怒りに関して言えば、人が認識可能な怒りの感情というのは、怒りの一部にすぎず、むしろ、普通の人間には認識不可能な心の深層にこそ、怒りを生み出す根本的なメカニズムが存在すると考えます。

心の深層は、ほとんどの人が認識できない場所ですから、「凡人には打つ手なし」。これは、唯識思想だけでなく、禅宗系仏教、浄土系仏教など大乗仏教全般に共通する立場といってもよいでしょう。

私自身のささやかな経験に照らしても、たとえ怒りが心の内観で静まったとしても、それは一時的なもので、条件さえ整えば、やすやすと私の心を占領してしまいます。悲しいことですが、これがどうしようもない私の姿です。

上座部仏教の立場からすれば、「どうしようもない」のではなく、それは私の修行が足らないからです。しかし、日々の生活の中で、感情の制御を続けることは、本当に難しいこと。凡人はどうしたらよいのでしょうか。

大乗仏教では、ある意味「打つ手なし」と自分にギブアップするのです。そこから、人が煩悩を抱えたままで、煩悩から離れる方法が説かれるのです。次回から、大乗仏教が示す「怒り」への対処法について考えてみましょう。合掌

 

 

 

 

 

 

 

夏の日帰りバスツアー

花の石山寺と湖畔の美術館を訪ねる

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    琵琶湖大津プリンスホテル(7月24日)

関西地方の梅雨が明けた7月24日、久しぶりのお天気に恵まれ、琵琶湖畔へ日帰りバス旅行に行ってきました。今回は総勢29名。

石山寺は木陰を吹き抜ける風が気持ちよく、一番上の月見亭まで行かれた方、多かったようです。昼食は大津プリンスホテルの37階。レストランに入ると、パッと琵琶湖の蒼が目に飛び込んできて、湖の眺めもごちそうでした。

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佐川美術館は、建物の周囲を取り囲む水のおもてがキラキラ光って、夏にぴったりのミュージアム。今回、気づいたのですが、周囲の水が側溝に落ちる音が、場所によって違うのです。
低い音・高い音、いずれも「1/f ゆらぎ」。雨音や波の音、小川のせせらぎ、揺らめく灯り、などと同じ癒しの効果がある自然界の「ゆらぎ」です。外の日差しは強くても、あちこちから心地よい音色が聞こえてきて、とてもリラックスできる場所でした。

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今回のツアーは、夏向きに「緑」と「水」を意識して企画しました。これからも季節を変えて、楽しいツアーを実施します。みなさまのご参加をお待ちしています。合掌

 

㊗本堂落成 !!

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令和元年6月30日、ついに本堂落成 !!
昨年の9月1日に着工して以来、あっという間の10ヵ月でした。
改修工事にかかわってくださったすべての方々に、心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。合掌                                                  下の写真は造家工房・亀井さんのインスタグラムから借用させていただきました。

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見送ったペットたち(2018)

円満寺では、大晦日法要の際、その年に住職がお葬式や年忌法要をつとめたワンちゃん、ネコちゃんたちのお名前を、もう一度呼んで供養しています。今年は、本堂が改築中のため、12月31日の午後に観音堂の西国三十三観音さまの前で、また夜には、自宅のお仏壇の前で、この子らの名前を呼び、お経を上げさせていただきました。


 1 月  ポッポちゃん
      プー太郎くん
 
2 月  ナナちゃん
      ビュンビュンくん  
  3 月 元気くん
      翔くん 
 4 月 未来くん
      ミニーちゃん
         ミーちゃん 
(四十九日) 
  5 月 くまこちゃん 
         リンちゃん 

  6 月 チビ兄くん (一周忌)
      くまこちゃん(四十九日)
      クロちゃん  
  7 月 エクレちゃん

     王子くん
    ココアちゃん
  8 月  フク
ちゃん   
     
くまこちゃん(初盆)
    ランちゃん  (初盆)
         ミミちゃん
      ななちゃん
 (一周忌) 
     プリンちゃん 
      ドルくん
 9 月 アイちゃん  
         タローくん 
         ロンくん 

10月 チロルちゃん 
      モコちゃん 
(一周忌) 
      はなちゃん  
         ななちゃん
     シイラちゃん

     ランチちゃん

11月  さきちゃん
         チャチャちゃん
  
         ラックくん
         茶々ちゃん

12月 ぽちくん
         小雪ちゃん

         はなちゃん(大晦日法要)

8 月15日の円満寺ペット法要では、ペットの保護活動をしている方が、これまでご縁のあったワンちゃん、ネコちゃんたちの供養をされました。シャーリーちゃん、テリーくん、ベルちゃん、メリーちゃん、チビンくん、マルちゃん、チロちゃん、トムくん、フウくん、ハナくん、ヒメちゃん、ももくん・・・


お釈迦さまのことばに「一切衆生  悉有仏性(いっさいしゅじょう  しつうぶっしょう)」(涅槃経)というのがあります。わかりやすく申し上げると、「人も動物もあらゆる生きものは、仏(ほとけ)さまからいただいた命を生きている。だから、みんな仏さまの世界に行けるのだよ。」ということです。

住職が見送ったペットたちも、仏さまの世界で遊んでいます。飛びはね、走っています。病気で逝った子も、すっかり元気になっていますよ。みんな幸せです。

また、お釈迦さまは、「俱
会一処(くえいっしょ)」(阿弥陀経)とおっしゃいます。つまり「別れた人や動物とは、一つのところ、仏さまの世界でまた会える」ということです。

うれしいですね。



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ペットを亡くして辛い思いをされている方、どうか、元気を出してください。寂しいとき、悲しいときは、思い出の写真に向かって、どれでも好きな言葉をとなえてみましょう。

南無阿弥陀仏  (なむあみだぶつ)
南無釈迦牟尼仏 (なむしゃかむにぶつ)
南無観世音菩薩 (なむかんぜおんぼさつ)
南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
南無妙法蓮華経 (なむみょうほうれんげきょう)

それぞれ、言葉はちがいますが、どれも根本は、
「仏(ほとけ)さま、よろしくお願いします」という意味です。仏教では、仏さまはたくさん存在しても、本質においてすべて同じ(同体異名)、と考えます。

寂しいとき、悲しいときは、「南無○○」と、声に出してみませんか。その聖なるフレーズは、仏さまのパワー(仏力)をもっています。ですから、必ず、仏さまの世界に届きます。


すると、「アッ、私にご飯をくれた人の声だ!」、「やさしくしてくれた家族の声だ ‼」。ワンちゃんやネコちゃんたちは、いっしょうけんめい応えます。「うれしいワン!」、「ありがとニャン!」。

さすがに、お経には、「うれしいワン、ありがとニャン」の記述はありせん。これは、あくまでも想像です。しかし、間違いないことは、ペットたちは、仏さまのもとであなたを待っててくれる、ということです。


でも、急ぐ必要はありません。再会は決まっているのですから、あなたは、この世で、ご自分のやるべきこと、ご自分の使命をしっかり果たしてください。それをペットたちも望んでいるはずです。


ペットの法事でいただいたお布施は、円満寺の本堂改築資金にあてさせていただきます。ワンちゃんやネコちゃんの供養が、本堂の柱や梁の一部になって、この寺を支えてくださるのです。ありがたいことです。合掌               
                                                                   

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ネコのカンキチ君

我が家には、ネコのカンキチ君がいます。6年前、東京で一人暮らしをしていた長女が子猫をもらい、世話ができなくなったというので、突然、ウチに連れてきました。

我が家では、これまで一度も動物を飼ったことがなかったので、どうしていいかわからず、ちょうど、赤ちゃんの長女が、はじめてウチに来た時のようでした。

いまでは、カンキチ君はすっかり立派になって、なくてはならない大切な家族になりました。

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ネコと暮らすようになってから、いろいろわかったことがあります。

「ネコも返事をする」こと、「ネコふんじゃった」の意味、「ネコで暖をとる」実感など・・・。やはり、すごいのは、カンキチ君は「与えられたもので満足する」ということです。仏教でいう「少欲知足」ですね。不平不満の多い人間より、よっぽどエライと思います。

ネコも動物ですから、本能的な欲求はあります。でも、人間のように、必要以上に欲深いこと、「貪欲」(仏教では「とんよく」と読みます)はありません。

これは、ネコだけでなく、ほかの動物たちも同じです。

もし、ネコや犬が人の言葉をしゃべれたら、森友・加計問題で大騒ぎしている人間たちに、何というでしょうね。

「小判なんか欲しくないニャン」、「ウソはよくないワン」。合掌

 

 

ペット葬儀をするわけ

ご縁があって、ときどき、ペットの葬儀や年忌法要をつとめています。
なぜ、犬やネコの法事をするのか?

それは、私の寺が動物の健康と安全を守る馬頭観音さまをお祀りしていることもありますが、何より、私自身が「動物好き」というのが、一番の理由です。6年前、突然、我が家にネコのカンキチ君がやってきて、いっしょに暮らしはじめてから、ネコや犬を見ると、無性に親近感がわいてくるようになりました。


こうした感情は、わたしが仏教を学んできたことと無縁ではありません。仏教(ほとけの教え)では、この世の中を「ほとけの世界」の価値観で見なさい、といいます。

その一例が、涅槃経(ねはんぎょう)のことば、「一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」です。「衆生」というのは、生きとし生けるものであって、人間も動物もあらゆる生きものが、ほとけのいのち(仏性)をもっているというのです。

ですから、仏教では、人間のいのちと動物のいのちに差を認めません。キリスト教では、はっきり人間を万物の霊長として、他の動物と区別していますが、仏教はそうではありません。

江戸時代の禅僧の良寛さんに、こんな話があります。

冬の一日、縁側で日向ぼっこをしている良寛さんの襟元を、虱(しらみ)がもぞもぞと這っています。良寛さんはその虱を、「あなたも日向ぼっこがしたいんだろうね」と、縁側で日向ぼっこをさせてやりました。やがて夕方になると、「寒くなりました。虱さん、お戻りなさい」と、再び自分の肌着に戻されたといいます(ひろさちや著『現代の課題に応える仏教講義』)。

良寛さんは、虱のうちに、ほとけのいのちを見ておられたのです。

Yjimagerbvygc1i_2あらゆる生きもののいのちが同じなら、長い間、いっしょに暮らしてきたワンちゃんやネコちゃんたちペットも、人間と同じように弔(とむら)われてもよいのではないでしょうか。心からの感謝の気持ちをこめて。

「いままで、あなたのおかげで、みんな、とても幸せでした。ほんとうにありがとう。また、ほとけさまの世界で会いましょう。」

いつも、そんなことを思いながら、目を閉じたペットとご遺族の前で、おつとめをさせていただいています。合掌 

魅力的なお寺をめざして

『仏教書』がブームといわれています。でも、一部の観光地を除けば、お寺にお参りする人は多くありません。

それは、なぜか?

たぶん、お寺に「魅力がない」からでしょう。
日本中どこの街でも、ちょっと散歩すれば、何かしらのお寺に行き当たります。日本全国で、寺とコンビニの数はどちらが多いでしょうか。

文化庁の『宗教年鑑2013年度』によると、全国の寺院は77342カ寺。一方、日本フランチャイズチェーン協会の『コンビニエンスストア統計調査月報(201410月版)』では、全国のコンビニ数は51476店。寺院のほうが25000以上、多いのです。ちょっとびっくりですね。

日本には、まだ、こんなに多くのお寺があるのです。しかし、現在、それらが有効活用されているかというと、どうでしょう?  観光地として有名なお寺は、いつも人であふれています。しかし、それ以外のお寺は、閑散としています。

これは、もったいないことです。日本の精神文化から見ても、お寺の存在は、日本人の心に大きな影響を与えてきました。とくに信仰心がなくても、お寺に行って手を合わせて拝む。ただ、それだけのことで心が落ち着く。そんな体験のある人は少なくないと思います。

それは、お寺に、もともと、人の心をホッとさせる「癒しの力」が備わっているからでしょう。ただ、いまの時代、お寺以外にも、人を癒す魅力的な場所はいくらでもあります。わざわざ、お寺に足を運んでもらうには、何か「普遍的な魅力」が必要です。

 


円満寺の場合、外見は、はっきり言ってボロです。「癒しの力」があるとは思えません。ですが、本堂の中へ入ると、中央にど~んとご本尊。左右に脇士(わきじ)があり、そのほか千体仏や秘仏など、たくさんの仏像が安置されています。

また、夜、蛍光灯を消して、ローソクの灯火だけにすると、お堂の中は、それは幻想的な世界に変わります。
心地よいお香の香り、ゆれるローソクの灯、ほのかに浮かび上がる仏(ほとけ)さま・・・。


こんなお堂のなかで、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)をしてみませんか。
「南無阿弥陀仏」を声に出してとなえると、不思議に気分がよくなります。

仏教の実践(行)には、書物では味わえない言葉を超えた世界が広がっています。実際に、そうした世界に触れ、心が癒されるのを実感していただく。これが、お寺が提供できる「普遍的な魅力」ではないでしょうか。試しに、円満寺の念仏会(念仏メディテーション)に来てみませんか。


念仏には、いろいろな考え方、称え方があります。わたしは、浄土系仏教の伝統的な教義を尊重しながらも、いま、欧米でムーブメントとなっている meditation (瞑想)の観点から、念仏の可能性を追求しています。
笑われるかも知れませんが、外国人にも称えてもらえる
念仏をめざしているのです(?笑)。合掌

Would you like to come to the Buddhism meditation of Enmanji Temple? This meditation continues causing the name of Amitabha Buddha. Therefore this is the meditation by the voices.  Let's do it happily with the chief priest of Enmanji Temple. Thank you.

 

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円満寺について

お寺の紹介

長澤山円満寺は、江戸時代初期に創建され、特定の檀家をもたず、人々の熱意によって維持されてきました。現在は、単立の宗教法人として運営されています。

本尊は大日如来、脇侍には馬頭観音と弘法大師像、本堂後方には、千体仏(阿弥陀如来)が安置されています。三重四国八十八ヶ所の二十三番霊場で、普段は無住です。ご朱印は本堂前の机の上にあります。ご利用ください。その他、境内には、西国三十三観音の石像を祀る観音堂や小さな地蔵堂もあります。


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 旧本堂(嘉永5年建築)

人も動物も救う観音さま
円満寺に伝わる馬頭観音は、人はもとより、あらゆる動物を守り、救うといわれ、かつては、近郷近在より参拝者があったと聞きます。いまでも、毎年、3月の初午(はつうま)法要の日には、観音さまの手につないだ紅白の綱を堂外まで引く「お手引き観音」の行事が続いています。

この観音さまをよく見ると、頭の上に口を開けたかわいいお馬さんを乗せておられます。おそらく、昔の人々は、田畑でいっしょに働く牛や馬の安全と健康をお祈りしたのではないでしょうか。馬頭観音は、いまでは、犬や猫などペットを守る観音さまとして、信仰をあつめています。

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行事のご案内
円満寺では、「初午(はつうま)」や「お盆」、「大晦日」など、季節の法要のほかに、毎月、「法話の会」、「念仏会(ねんぶつえ)」などを開いています。私どもの寺は、三重四国の霊場ですから、すべての行事は、地域の内外を問わず、広く開かれています。どなたさまも、自由にお参りください。行事の日時は、このページの左欄「各月の行事案内」をご覧ください。

本日は、当寺のページをご覧いただき、ありがとうございました。  合掌  

 

 

 

 

トピックス

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